東日本大震災から9年たった今

※これは堀の個人の活動です

先日仙台に行きました。

震災以降、いろんな場所で震災の情報は耳にしていました。
復興を支援する人たちにもたくさん出会いました。

そういった事があって、チャリティーイベントに参加、そして企画もするようになったわけです。
その中で「とにかく一度見に行って欲しい」と言われたのをずっと覚えていて、今回は思い切って足を運んだわけです。

知りたかった事・知った事

テレビやネットで見る情報だけに頼って、ある程度の事はそれを真実として過ごしています。
そんな中で言われた「一度見に行って欲しい」という言葉の意味を知りたかった。

そして知ったのは未だに手付かずの場所がある事。
一人でも辛いのに一度に何人もの家族や友人を亡くした人がいる事。
その言葉の重み。
苦しみや悲しみとかの言葉では説明できない感情がずっと残ってる事。

結局行ってみないとわからなかったんですよね。
この記事を書いていてもそれだけじゃ伝わらないって確信しています。
ですが、この記事を通して「とにかく一度行ってみて欲しい」って気持ちが伝わればいいなと思います。

どういう風に知らなかった事を知ったか説明していこうと思います。

道中

前日は東京で展示会があった為、東京から新幹線にのりました。約1時間ほどで到着です。

阪神大震災の9年後位の時に被災地として有名だった『長田』にずっと住んでる友達と仲良くなって、何度も泊まりにいったんだけど、物理的な物はある程度回復していたので、東北も「きっとそうなんだろうな」くらいの気持ちでいました。いつも通り、話をしながら仙台駅に向かいます。

仙台に到着。
仙台に来たのは初めてでしたが、めちゃくちゃ活気がありました。
時間が迫っていたので今回の目的の一つである<みちのく未来基金>さんの事務所へ向かいました。

みちのく未来基金

3.11東日本大震災は日本人一人ひとりに多くの宿題を残しました。
「未曾有の」とか「想定を超える」とかの言葉が飛び交いましたが、理由はどうあれ多くの子どもたちが愛する親を失いました。
そして子どもたちは今、進学の夢や希望を諦めようとしています。
私たち
カゴメ株式会社、カルビー株式会社、ロート製薬株式会社は、真にこの復興の礎となるべき子どもたちが、その夢や希望を諦めずに成長し、故郷の復興のために役立ってほしいとの願いを込めて、進学支援のための奨学基金「公益財団法人みちのく未来基金」を設立致しました。
最後の進学希望者が卒業するまで四半世紀にも及ぶ大変長い活動になりますが、同じような志を持つ多くの
みなさんと、支援の輪を広げながら歩んでいきたいと思います。
多くの方々の様々なご支援、ご参加を心よりお待ち申し上げます。

※みちのく未来基金HPより抜粋

みちのく未来基金HP

震災の次の年から活動を続けられています。
震災が3月にあったのですがその年の入学生には間に合わなかった事をとても悔やまれていました。
世の中には「支援したいけど・・・」っていう状態で今になってる人も少なくないと思います。もちろん僕もその一人でした。
でも現実はスピード感もとても大切で、この瞬間にも救えた気持ちが必ずあるんだと思います。

活動内容をお聞きした後、みちのく未来基金8期生の卒業を記念した映像を見せていただきました。
みんなとても幸せそうでした。
”この活動で確実に救われた人がいる”とか”知らない誰かのためにできることがある”って確信できました。
卒業生の笑顔は本当に綺麗でいい映像を見せていただきました。

約1時間の話を終えて石巻市に向かいます。

311みらいサポート

石巻市にやってきた理由はこの街が震災でもっとも被害にあった場所の一つだからです。
そして、当時の事を伝えながら街を案内してくれたのが<311みらいサポート>さんでした。

311みらいサポートHP

1Km弱の道のりを歩きながら事務所にむかいます。
かなり綺麗になっていましたが、所々一度水に浸かったんだとわかる状態のままの建物もありました。
事務所に到着して、まず、当時の写真や、津波被害があった地域など詳しくおしえて頂きました。

今回説明してくれたのが、高橋さん。
"今いる場所" "テレビでみていた場所" "大川小学校の事" "どんなことが助けになってるか" "誤解がある事" "食糧がとどいたタイミング"など
体験談として話を聞けたので、とにかく説得力がありました。

新聞などの紙資料

街の案内

案内でわかりやすかったのはipadに当時の写真が入っています。
そしてその場所に連れて行ってくれるんです。

旧北上川

ここを登れた人は助かったという坂

震災依頼、避難できる建物には印がつくようになりました。
建物の右上にある『緑色のマーク』が目標になります。


津波避難マップが設置されています。

防波堤は圧迫感が出ないように工夫されていました。
見晴らしがよくいい場所です。

とても綺麗になっていますが、後ろではまだ工事しているし、この川の向こうはまだ人が住めない区画に指定されています。

当時の瓦礫が撤去されずにそのままになってるところもありました。

綺麗になったように見えた橋のひびは直っていませんでした。

街の案内を終えて再び事務所に戻りました。
戻ってからは少し打ち解けていたので雑談を交えながらお話して仙台にもどりました。

案内して頂いてる途中、何度も涙ぐむ瞬間があって、伝えるという仕事はとても残酷な仕事だと思う。
忘れたらいけないから誰かが伝えなきゃいけない事だけど、誰もが忘れてしまいたい事。
こうやって仕事をする高橋さんは本当素敵だなと心から尊敬します。

僕は本当に大好きになったのでいつか必ずもう一度来て役に立ちたい。
「一度行ってみて欲しい』と言われ来てみたら、もう大切な人ができて、言葉通り"他人事"ではなくなりました。

いい出会いだったな。

綴cafe

綴りカフェHP

2日目は現地の物産を集めて展示している『綴cafe』へ

いろんな物があって説明していただきました。

いくつかある中から単価が大きすぎない物で腐らない物をチャリティーイベントなどで代理販売し、少しでも有名になってもらえたらと思います。
イベント制作のメンバーで話し合ってまた発注させてもらいます。

あと個人的にいいなと思ったのは『山椒ビール』
腐りづらいし、みんな一度は飲んでみたいと思うはず。

ビールの苦味の後にピリッとくるのがキレになってとっても美味しかった。
あと『牡蠣ビール』っていうのも同じシリーズで販売されてました。

軽く食事もさせていただき、できるだけ原子力発電所の近くまで行ってみたいと思います。

福島第一原子力発電所

正直どうしようか最後まで迷ってました。
かなりおさまってきているとはいえ、いまだに帰還困難区域があります。
多少なりとも放射線を浴びてしまいます。

仙台から車で約1時間30分。

高速道路を走っていると放射線量を表示する看板が何度か出てきます。
原子力発電所に向かってる実感がわいてきます。

※福島復興ステーションより

高速を降りて帰還困難区域に近づくにつれどんどん人の気配が無くなっていきます。
長い間誰も住んでいないとはっきりわかるくらい雑草が生い茂り、窓ガラスは埃かなにかで曇っています。
20軒に1軒人が住んでそうな家があるくらいの割合。

JRは浪江駅での折り返し運転が今も続いています。

この辺りから本格的に人の気配がなくなります。

帰還困難区域は大通りから脇道に入ったりする事はできません。
走っていると東の方角に原子力発電所が見えてきます。

これ以上近づく事はできませんでした。

少し戻って海に向けて走りました。
海沿いは津波の被害地域です。

元々建物がなかったのかわからないくらい寂しい状態でした

元々はどんなところだったんでしょうか?

建設された防波堤

海岸までくると釣りをしてる人と出会いました。
大きなカレイですかね?釣り上げていました。

そこから原子力発電所を眺めることができるかと思いましたが、防波堤でみえません。

 

やはりこれだけ目の当たりにすると言葉が見つかりません。
この写真をみながらもっと気の効いたコメントを書きたいですが、やはり言葉にできないんですよね。

口数の少ない車内は帰路につきます。

急に雲の隙間から光が差し込んで、なんだかフィクションみたいな気持ちになって少し盛り上がりました。

なんかすごいですよね。神秘的だけど、怖い空でした。

以上が今回の旅です。

まとめ

いろんな場所に行ってみて僕は言いたいのは『一度行ってみて欲しい』です。
今度は僕達が伝えていきます。

現地で活動し続けている素晴らしい人たちがたくさんいます。
是非知っていただき、足を運んだり、募金だけも助かるはずです。

東北完全復興の日まで世界中手を取り合って進んでいきたいです!

堀 正幸

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